電柱のある風景

沖縄のあちこちをフラフラして見たこと感じたことを綴ります

< 2025年05月 >
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TI-DA
てぃーだブログ

徒然雑感今帰仁の面影グスク時代

ヤマタイカ

GWに沖縄が舞台となっているコミックがないか調べていたら
”ヤマタイカ” がヒットした

作者は ”星野之宣”
海洋博が開催されていた頃に”ブルーシティー” を週刊少年ジャンプに連載していた作者だ
”アクアポリス” に類似した研究所や ”エラのある水棲人類” が出てくるSF漫画だった










”ヤマタイカ”  は
久高島の神女(ノロ)を中心とした集団が
日本全土を巻き込み日本古代の祭祀(マツリ)の復活を通して
未来へ向けた新しい遺産を創造していくいわば”現代の創世神話”なのだろう

日本画を学んだという作者の画風はシュールで展開も早く時間を忘れ読むことができた





ヤマタイカを読んでいてあの頃に週刊少年ジャンプに掲載されていた ”ブラフマン” ・”アートマン” を思い出した
”諸星大二郎” の ”暗黒神話” だ

作画のタッチは異様で作品の内容と相まって何か不安に陥れられるような画風だった
(水木しげる 楳図かずお エコエコ・アザラク風? 日野日出志)
まだ小学生だった自身は複雑な内容は理解できず怖々とみてたのがとても印象に残っている


”ヤマタイカ” は現在絶版のようでジュンク堂も扱いはなかった
中古品でも全5巻で1~2万円と結構な値段がついている(レジェンド・オブ・ヤマタイカ)
AMAZONのKindleでは1巻数百円・・・・Kindleで初めて購入しiPadで閲覧した


ジュンク堂では
作家別の作品コーナーがあり星野之宣と諸星大二郎は同じ列に入っていた

諸星の方は ”暗黒神話” と読んだことのない姉妹作だという ”孔子暗黒伝”
それに ”稗田礼次郎シリーズ” の ”妖怪ハンター” を購入(いずれも文庫版だった)


”ヤマタイカ” のキーワードの一つに ”オモイカネ” がある
孔子暗黒伝にもオモイカネはでていた
また両者に ”万座毛” の描写もあった

”オモイカネの神” は日本神話で知恵を司る神だという
”オモイカネ” は ”思金・思兼” の漢字が当てられる
・・・・なんと琉球風というか ”うちなぁ” だった


GWは天気が良かったのは5月3日のみ
その他は小雨混じりの曇り空か雷雨で久々のコミック三昧だ




追記)
琉球の開闢神話の中の ”天孫氏”
その王統は約17800年25代続いたとされています

天孫氏の最後の王は ”思金松兼”

また第二尚氏時代に編纂された ”球陽外卷・遺老説伝” の説話・民話集第68話に ”黄金の瓜子(うりざね)” があり久高島の少年 ”思松兼” の説話が収録されています

思松兼は英祖王統第4代 ”玉城王” 側室の男子だとされています

また思松兼は他の民話などにも登場しているようです;複数いる?


”ヤマタイカ” では
古代の祭祀に用いられた巨大な銅鐸”オモイカネ” の小さな雛形”オモイマツカネ” が古代船とともに久高島が望める現:南城市の”斎場御嶽” に秘匿されていたことになっています

また作中では ”祭” に ”マティ” とルビが振られていました
(御祭:ウマチー)



個人的には 
辺戸岬から到来した ”天孫氏” は ”平維盛”
久高島から玉城百名に到達した ”アマミキヨ(アマミク)”  は  ”平資盛”
・・・・の兄弟・・・・なのかなと妄想しています

”天孫氏” の集団は ”今帰仁世:うちなぁ” を
すこし遅れた ”アマミキヨ” の集団は ”英祖王統” となった ?


”東の海” の向こうに私たちのルーツはきっとあると思います

徒然中部-北地区今帰仁の面影夢の跡(現代まで)

沖ツラベンチ

”沖ツラ” のアニメで具志川が気になりGoogle mapを見ていたら
”沖ツラベンチ” と記されている場所が海岸沿いにあった


またアニメの舞台となった場所を訪れることを
”聖地巡礼” と呼んでいることも知った


そうか!!
それじゃあ ”聖地” に行こうと思っていたが
3月から4月の休日は曇りや雨模様・・・・
どうせ行くなら晴れている日がいいと思った


4月29日(昭和の日)は朝から好天の予報で
やっと ”聖地巡礼”  行くことができた









”沖ツラベンチ” の向こうの断崖は ”具志川グシク”

アニメでも原作でも ”ぐしちゃーぐしく” は背景に再現されていた

具志川グシクは伊波按司から出た
”安慶名大川按司” 系統の ”天願按司” によるものだとされる

”安慶名大川” はこの近くに河口のある ”天願川” だという
天願川は ”読谷山岳” 付近に源流があり
大正年間には ”沖縄八景” の一つだった



10年ほど前この辺りを徘徊してたら
金武湾入口交差点の先に古ぼけた ”具志川小学校” があった

なんでここに”具志川”小学校があるのだろうと不思議に思った
具志川中学校は離れた”兼箇段” のところ(正確には喜屋武)にあるのは知っていて家にかえって調べてみたらここは”具志川の具志川” だった・・・・

以前訪れた時は小学校や北側にある昭和製紙の先の海岸線はほぼ原野だった
曇り空で冬の強い北風が吹いておりとても寂しい印象だ

今は海岸近くに真っ白な真新しい家が立ち並び明るい雰囲気になっている



久々のいい天気


波の音は穏やかに
緩やかな風で木々は歌う
防波堤で子供達ははしゃぎ
白い砂浜からカヤックの歓声が聞こえる


いいね!! 
最高やいび~ん!!


”沖ツラ” アニメが終わってちょっとロス気分?

還暦+1になって ”ハ~モ~” なったけど
まだ ”ミ~ハ~”  ?

徒然那覇首里地区今帰仁の面影三山時代

崇元寺

崇元寺:すぅぎぃじぃ  国指定重要文化財




那覇市泊の県道29号線(又吉道路)に崇元寺の石門がある

かつての国宝で琉球國歴代王の国廟だった崇元寺の伽藍は
沖縄戦により焼失し復元はされていない










第二尚氏の歴史による1458年の ”護佐丸・阿麻和利の乱” のあと
”大城掟(安里大親:安里清信)” は泊の地に移り奄美や海外と交易を行なっていたそうだ

それ以前は長兄の ”伊寿留:いずるん(いじゅる)” と行動を共にし 
”中グシク” の近く(現:北中城村大城)にいた



”山田グシク(読谷山グシク)” を築いた ”先代山田按司(先代読谷山按司)” は 
”仲昔今帰仁世主(ゆぬぬし)” の弟だった

先代山田按司は
1300年のころ南からの勢力(後の察度系?)との戦いで敗死し
のちに初代伊波按司となった ”今帰仁子” の兄が山田グシクに入り後継となった

その山田按司は嗣子(つぐこ)に恵まれなかった


1322年 
”いわゆる北山王国” の初代王となった ”帕尼芝(はにじ:羽地)” に敗れた ”今帰仁子” は
美里伊波に拠点を移し “伊波グシク(美里グシク)”  で 
”初代伊波按司(仲昔今帰仁6代:いわゆる”六代”である)” となった

初代伊波按司の子か孫が
嗣子がいなかった山田グシクに入り ”伊寿留 ・護佐丸” などの ”父祖” となっている


”安里大親” は ”伊寿留・護佐丸” らの異母兄弟として誕生している
”護佐丸” とは半年違いの生まれであったともされ生年の前後はよくわかっていない

安里大親は幼少期に国頭按司の養子となりその後中国(明国)へ留学したという

占星術などを学び霊感が強く
沖縄の ”サンジンソー(ユタの男性版)” の元祖とも云われている



”護佐丸・阿麻和利の乱”  翌年の1459年に ”金丸” は 
”御物城御鎖側:うむぬぐしくうさすぬすば”  に任命された

その役割は海外との交易や交易品の管理
そして尚泰久王への取次職であり
王への上申は金丸を経由しなければならなかった

・・・・1460年尚泰久は謎の急死でこの世を去っている


後を受けて第一尚氏では最後の王となった ”尚徳” が即位した

尚徳は先代の尚泰久王の側室の子と云われている

尚泰久の母は初代伊波按司の長女(すなわち尚巴志の正妻)で
尚泰久の正妻は ”護佐丸の娘” だった

正妻の子は安次富金橋・三葉多武喜・八幡加那志などの男子がいたが
”護佐丸・阿麻和利の乱” の後に玉城(現・南城市)などへ追いやられた


尚徳は安里大親より泊の交易権を奪って母方の縁戚に与えたため
安里大親は ”崇元寺” となった場所に庵を構え隠遁したとされ
崇元寺の境内には安里大親に関する御嶽も残っている


御物城御鎖側だった金丸は
任務のため首里から那覇の湊へ
安里大親の住む庵がある木々の前を頻繁に通過していた

二人は碁を打ちながら第一尚氏転覆のクーデター計画を練っていたようだ
(那覇市安里の ”碁打御嶽”)

尚徳死去(暗殺?)のあと第一尚氏重臣たちは次期の国王を決める会議を開くが
その場で安里大親が神がかりして ”物呉ゆすどぅ我御主 内間御鎖どぅ我御主” と
”世謡(ユーウテー)” を謡い出し重臣たちは賛同して金丸が第二尚氏初代の尚円王になったという
(実際は第一尚氏から第二尚氏への世代わりの時にはかなりの殺戮があった模様)



崇元寺橋近くの安里川には隠遁した安里大親が釣りを楽しんだところとされる
”浮縄御嶽(うちなーぬうがん:オキナワノ嶽)” がある

また安里大親は護佐丸の遺児 ”盛親:もりちか(せいしん)” の養父となった



安里大親は明国留学時に築城技術も学び石工集団を抱えていた?

世界遺産となった護佐丸が築き/改修したとされる ”座喜味グシク・中グシク” などは
安里大親の手によるものかもしれず ”崇元寺” の創建にも関わったとされている




”泊と安里” の地名は中城村にもある

もう一つは具志頭(現・八重瀬町)の ”ハナグシク(玻名城・花城)” の近くに安里集落がある

”泊” は ”港・湊・渡口(渡具知:渡久地)・津” など海に関係する地名だと思う

具志頭の安里もよくみると ”ギーザバンタ” などを含み ”東の海” に面しているようだ

安里集落の ”原名;ハルナー” までは調べていないが
もしかすると ”泊” が近くに隠れているのかもしれない



一説によると ”安里” の ”安” は ”安徳” の ”安” だといわれている・・・・






追記)
大城掟:うふぐしくうっち
安里大親:あさとぅうふやぁ
安里清信:あさときよのぶ(せいしん)

”御物城:うむぬぐしく” は 現在那覇軍港内に痕跡が残っています



護佐丸・安里大親 の兄 ”伊寿留”  は護佐丸・阿麻和利の乱の後
現在の中城村伊舎堂の地へ移り住んだ(中城村指定史跡:伊舎堂前の三本ガジマル)

その子孫は豪農となり
第二尚氏時代の飢饉の際には蔵の米を供出し多数の人の命を救ったそうだ

現在でも伊舎堂の地には ”伊寿留安里家” という末裔の方々がおられるという


”伊舎堂” の語源は ”伊寿留” か?

徒然中部-北地区今帰仁の面影グスク時代

鷹之目断崖

たかぬみーばんた たかみーばんた




2017年12月10日読谷村渡具知の比謝川河口北岸










海に向かって木々の生い茂った断崖が続いていく

断崖の先は ”タカミーバンタ” と呼ばれ
かつて ”泊グシク:トゥマイグシク(渡具知泊城)” があった


タカミーバンタの中腹には ”丘春” の隠し墓がある




1269年本部大主(むとぅぶうふすー) の反乱により
今帰仁グシクを追われた幼少の ”千代松” は潮平大主(すんじゃうふすー)の手引きにより母とともに
読谷山の北谷砂辺(現:嘉手納基地内)の砂辺御殿(しなびうどぅん)に下男として厩に匿われ
”丘春:岡春(うかはる)” と名前変えている

成長した丘春は潮平大主や亡父のかつての旧臣たちに助けられ
泊グシクで ”今帰仁奪還” 機会を見定め
ついに1287年読谷山の大木徳武佐(とぅくぶさー)で挙兵した


今帰仁平定後は ”眞玉津” との間に子宝に恵まれ
1310年長子の ”仲宗根若按司(仲昔今帰仁世主5代)” に家督を譲り再び泊グシクで隠遁されている


そして1320年に幸地グシク(現:西原町)の ”熱田之子:あったぬしー” の策謀により
”唐旅:とぅたび” へ旅立った・・・・(黄泉の国へ)  









2025年4月6日の比謝川河口北岸

冷たい小さな雨粒が風に舞っていた



2018年の台風と豪雨で断崖の一部は崩落した


断崖はコンクリートで固められその先にタカミーバンタが見えている


        崩落した断崖には

          今歸仁下り世 親泊大主
          村世      渡口掟
 
             の合葬された古墓がある



鬱蒼と生い茂っていた樹々は無機質な冷たい表情になっていた





追記)
本部大主は
仲昔今帰仁世主(ゆぬぬし)第3代の筆頭家臣だった
妹を世主に嫁がせたが世子の誕生は叶わず
世主は他の家臣の勧めもあり
志慶真ムラの ”乙樽:うとぅだる” を側室に迎え丘春が生まれた
仲昔今帰仁の乗っ取りを画策していた本部は母子共々抹殺を企て反乱を起こした


潮平大主は
仲昔今帰仁の家臣で現在の糸満市潮平で製塩を営んでいた
本部大主による反乱の際には乙樽と丘春を救出し砂辺御殿へ匿い
その後丘春を終生に渡り手助けしている


志慶真乙樽(しじまうとぅだる)は
今帰仁グシク南方の志慶真ムラに在住していたとされる
第3代仲昔今帰仁世主の側室となり待ち侘びていた世継ぎの丘春が誕生した
砂辺御殿の付近で本部大主による母子探索のスパイ ”喜舎場子:きしゃばんすー” に所在を掴まれ
丘春に類が及ばぬように忽然と姿を消し丘春が今帰仁平定後に再会が叶う
今帰仁では現在でも ”今帰仁御神” と呼ばれ志慶真川河口近くに墓所があり
今帰仁グシクの頂部には志慶真乙樽と丘春を詠んだ琉歌の碑がある

     今帰仁の城
      しもなりの九年母
         志慶真乙樽が
          ぬきやいはきやい


眞玉津は
砂辺御殿の子女で厩に匿われた年齢の近い丘春に恋心を抱いていた
1300年ごろ北谷は ”南からの勢力(後の察度系?)” より侵攻を受け
眞玉津親子は今帰仁へ避難
仲昔今帰仁4代となった丘春と再会しその後結ばれた
眞玉津は丘春とともに ”タカミーバンタ” の隠し墓に合葬されている



2015年頃
タカミーバンタの端で誘われたかのように岩の隙間に続く洞穴へ入っていくと
”丘春・眞玉津・臣下” が合祀された隠し墓にたどり着いた
その後タカミーバンタの一帯は崩落の危険で立ち入りは規制された



今帰仁グシクには東西に ”親泊” ”今帰仁” の城下町があった
1609年の島津侵攻(慶長の役)でグシクと城下町は炎上しグシクは廃城に
二つの城下町は海沿いに移動していった
明治時代の1903年に二つの集落は合併させられ ”今帰仁村今泊” となった


第二尚氏時代の ”間切(まぎり)” は現在の市町村と同様な意味合いで
間切内の集落(字)は ”ムラ”   その以前は ”シマ” と呼ばれていたような気がする


”ムラ・シマ” の中に細分化された ”ハル(小字)” がある
”ハル(原)” は土地の登記などに現在でも用いられており
”ハルナー(原名)” と言われている
ex. 宜野湾市真栄原の ”上茶原(うぃーちゃばる)” ”水玉原(みんたまーばる)” など
”ハル” は ”畑:耕作地” という意味合いもあります


1322年帕尼芝:ハニジ(後のいわゆる北山国王)との争いで仲宗根若按司は敗死し
仲昔今帰仁の人々は読谷山・美里など各地へ散らばった


”今歸仁下り世” とは1322年の仲昔今帰仁の終焉後を示し
”村世” はその後読谷山渡口(渡具知)に定住していった時代を示しているのではないのだろうか?



読谷村渡具知の ”泊城公園” にはあの当時の伝承が記述された説明碑がある

碑の周辺にはかつて ”琉球八景” の一つとなった風光明媚な岩礁があるが
現在立ち入りは規制されている


いわゆる北山王国(後今帰仁:後北山)による仲昔今帰仁掃討の争いが
1300年代に読谷山大湾・古堅であったらしい(大湾の戦い・古堅の戦い)

仲昔今帰仁(中今帰仁:中北山)の系統の人々はそれに屈せず
三山時代には読谷山・美里・具志川・勝連などを中心に広がっていった


古の時代(グシク時代~三山時代まで?) ”読谷山” は
現在の恩納村谷茶(たんちゃ)から北谷(ちゃたん)の範囲にあったようだ


  
 ”丘春” は未来永劫 ”鷹の目” になり
  高い空の上から ”うちなぁ:沖縄” を見続けているのだろう

徒然雑感

20年以上前に購入したソファベッドがヘタって部屋の中で無用の長物と化していた

どこで買ったか覚えていないがおそらく中華製?



処分しようと思い解体することとした


・・・・解体中になんか使えないかと思案











2メートル近くあるソファベッドを端から45cmずつ切断し
物置を作ることとした


保管していた端材や解体で出てきた部材でなんとか作成し
使っていないコタツの上に設置

それにしても余っていたダイソーのネジは
インパクトのフルスロットルで回すとネジ頭がブッ飛ぶなぁ・・・・



ベッド下の方は収納と目論んだがあまり物が入らない・・・・


もう少し効率的な利用法を考えてみよう・・・・

徒然中部-北地区

沖ツラ

数年前本屋で ”沖ツラ” をみて面白そうだったので
単行本を4冊買った


家に帰ってパラパラめくると
老眼には単行本の小さい文字がツラかった・・・・

そのままほとんど見ることなく本棚に行った



1月から県内民放3局で ”沖ツラ” アニメをやるとのことで
録画しておいた



アニメ版は風景描写が精密・綺麗でなかなかの出来となっており面白かった



9年ほど前に自転車で ”勝連”・”具志川” や ”金武湾” の電柱を辿った時に見た
”具志川コミュニティセンター” や ”金武湾バス停” などの景色が頭に蘇った

アニメ終了後に本棚にしまっていた単行本を読み直そうと思い引っ張り出す











4巻目は販売時のフィルムの開封さえもしていなかった


・・・・結構面白い
スラスラと小さな文字も読むことができた・・・・アニメでやっていた雰囲気の記憶で?


現在9巻まで単行本は発売されているようだ
機会があったらみてみよう



アニメ版の第2・3弾もはやく見たいものだ

鮮やかに再現された ”東の海” をまたお願いします

徒然那覇首里地区

丸國マーケット

時間は確実に流れ去っていく



沖縄中南部に住んでいた
1960年代前後に生まれた男子なら行ったことがある人も結構いるだろう

いわゆる ”黒い学生服” を販売している店が多数入っていた










あの頃の建物は
セメント剥き出しで窓も木枠だったような気がするが・・・・


内部はカオスで
衣服が山積みされ天井にもたくさんの衣類がぶら下がっおり
中高生が目当ての ”黒い学生服” もすぐ目にすることができた



丸國マーケットには
中部方面から牧志バス停より平和通りの奥の先の方にあって
南部からは開南バス停より新栄通り(サンライズ・なは)に入って来てたようだ

観光地化した平和通りには人混みがまだあるが
丸國マーケット周辺は人もまばらでシャッターの下りた店舗も多かった


この付近かどうかよく覚えていないが
小学生か中学生の頃に ”じんかめー” にあった

取られた記憶はないので持ってなかったか
人混みに紛れ ”いっとーばい” したかのどっちかだろう



丸國マーケットにもシャッターが目立ち
2階部分はゲストハウスになっていた



子供の時に近所のお兄さんから聞いた話では
”開南バス停” 周辺には ”石川啄木” の
 
  ふるさとの
   訛りなつかし
    停車場の
     人ごみの中に
      そを聽きに行く

・・・・という様な世界が広がっていたという

徒然那覇首里地区今帰仁の面影三山時代

御物城

ウムヌグシク




那覇港埠頭から










アメリカ陸軍那覇軍港に接収され
restricted areaになった “御物城” が見える


”ウムヌグシク” は第一尚氏時代には存在していたようで 
古地図に ”宝庫” と記されているようだ

諸外国との交易品の収蔵庫として
また酒甕を貯蔵する酒庫や
鉄甲槍剣弓矢を保管する軍器庫としても機能していたようである


沖縄県立博物館が1977年行った基地内文化財調査では
15世紀ごろの青磁器や ”螺殻(ホラガイ)・貝巴(タカラガイ)” が多量に発掘されている

ウムヌグスクの跡には米軍通信施設が設置されているが
相方積み石垣やアーチ門は残っているとのことです


宝庫を管理する役人は ”御物城御鎖之側(ウムヌグシク・ウサスヌスバ)” と呼ばれ
宝物庫の管理だけではなく那覇の行政や貿易業務まで担当し
当時の役人の中では最も権力のある地位であった

第一尚氏尚泰久により ”ウムヌグシクウサスヌスバ” に任命された ”金丸” は
第一尚氏転覆のクーデターへの原資をこれで蓄えることが可能となったのだと思われる

        
”虎ぬ子や虎 悪王ぬ子や悪王 物呉ゆすどぅ我御主 内間御鎖どぅ我御主”




追記)
相方積み(あいかたづみ)は亀甲乱積みとも呼ばれて沖縄独特の石を積む方法らしい

相方積みは石の自然の形を利用しながら互いに噛み合うように削り合わせて積む方法で
最も進んだ石積みの手法とされている

”座喜味グシク 中グシク 崇元寺” などは相方積みの石垣として知られている



2025.3.15追記)
人類学の ”土肥直美先生” が琉球新報社主催の第42回東恩納寛惇賞を受賞された

先生は古人骨から沖縄人の特徴や生活の様子を明らかにした功績があり
”沖縄人” ルーツ探求の第一人者だ


先生は発掘した ”グシク時代” の頭蓋骨を復元し ”極端な出っ歯” であることを提示し
鎌倉時代から安土桃山時代の ”日本本土の中世人” と同じ特徴があったことを示された

これらのことよりグシク時代の ”うちなぁ” には外部からかなり多数の人々が入ってきたと推論している



以前 ”どこかの琉球独立党(現在名称変更されている)” が 
”琉球人骨” の問題を叫び ”異民族支配を受けている琉球” などと主張していたが
”あの人たち(ある時期県選出の国会議員だった人も含む)” は 
”何かの歴史” を隠すために騒いでいたような気がする



いわゆる ”琉球” の根本ある隠された ”うちなぁ” を現在に生きる我々は忘れてはいけないと思う



土肥直美先生 受賞おめでとうございます

今後も先生の研究が発展されていきますように切望いたします

徒然雑感

門柱前の敷石をDIY

3月の初めの日曜日
沖縄は暑かった


暑い季節に草ボーボーとなる門柱前の土間を何とかしようと考えた










メイクマンで赤土とレンガのタイルを買って
門柱前に赤土を敷いて除草剤を散布し
電動ハンマーで赤土の表面を平坦にしタイルを並べた



ネコが通るので除草剤について学習・・・・

グリホサートやパラコートなどの成分の入った除草剤は
動物にも危険らしい・・・・

いろいろネット上を徘徊し
カインズで比較的安価に販売さている
粒状の "クサアタック” にたどり着いた

その成分の毒性試験などを棒読みし大丈夫そうだったので
試してみることとした

除草成分は植物ホルモンに作用し
ペットなど動物にはほぼ無害のような印象・・・・


除草効果発現には2~3週間程度・・・・
よかったらまた試してみよう



その日は太陽サンサンでとても暑く久しぶりに汗がダラダラ・・・・
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