電柱のある風景

沖縄のあちこちをフラフラして見たこと感じたことを綴ります

< 2024年05月 >
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TI-DA
てぃーだブログ

徒然雑感

今回のバッテリアダプターの ”キモ” はDC/DCコンバーター

6~32Vの直流電流を1.25~32Vへ変換できる(最大5A75Wまで)・・・・らしい

12V出力に設定しDCジャックから給電・・・・









二股のDCジャックをつけて一方は12Vファンへ・・・・一応コンバータ冷却用
もう一方は12Vから100Vへ昇圧するカーインバーターへ繋ぐ

・・・・ファンは回るが使いたかったルーペ付き蛍光灯が点灯しない









調べてみると安いカーインバーターは ”修正正弦波” と呼ばれる ”矩形波” ・・・・
これでは ”正弦波” が必要なインバーター式蛍光灯は使えないとのこと・・・・
しかも蛍光管点灯時に瞬間的に300~400Vの起動電圧が必要そう・・・・?



さてどうしたもんか・・・・

LEDは点灯する・・・・ルーペ付のLED・・・・?
まあ商用100Vのコンセントで使えるからまあいいか・・・・



さらに調べてみるとなんか使えそうなのがHITした

さっそく試してみよう

・・・・到着待ち

徒然雑感

⚠️シロウト作業で大変に危険で感電などにより死に至ることがあります
 
 HIKOKIやマキタのバッテリーでは純正のアダプターが販売されています
 これらを利用するのが最良・最適な方法です

⚠️不用意な操作で最悪の結果がもたらされます
 人体の中心を10mA(0.01A)以上の電流が流れると心室細動を引き起こす可能性があり
 心室細動が発生すると死に至ります


 



ネットを徘徊していると
壊れたバッテリーの充電器を利用した電源アダプタ作成の動画が目に止まった

以前格安で買った中華工具のバッテリー(公称:18V2A)を用い
アダプタが作成できないか思案してみることに・・・・



感電しないようにするためには?絶縁は?
ショートさせないようにするためには?配線は?・・・・



家にあった材料やAMAZONで使えそうな物品を揃えた

・・・・十分注意しつつアダプターを作成してみることに

0.8mm厚の銅板を切断してバッテリーから電源を取る電極を作成した
銅板の抵抗は0.000MΩ・・・・だった









ハンダゴテ使うのも数十年ぶり・・・・










使用のイメージ図・・・・100均のカゴで持ち運び?




徒然中部-北地区今帰仁の面影三山時代

沖縄電力美里変電所

1970年航空写真では現在の美里変電所がある地域には
のどかな田園風景が広がっている

1977・1984年周辺に住宅は増えてきているがまだ現在のような区画整理は開始されていない 県営古謝団地も見当たらない

航空写真ではかつて ”険道” だった ”具志川環状線”  の白い道筋をたどることができる

1993年には区画整理が開始され沖縄市の ”美里仲原町(なかばるちょう)” となった地区に変電所が出現している

この地区を走る ”具志川環状線(県道224号線)” は途切れ途切れで開通しており
”高津嘉山” の近くの沖縄県営古謝団地や ”沖縄温泉ファミリーパーク” が見える

2003年には変電所周辺はほぼ区画整理が終わり現在の姿になっている









沖縄電力美里変電所付近で 宮中 津嘉山 などの電柱が発生している


付近は住宅や商業施設が建ち並んでクルマなどの通行が多い

変電所前の道の先に大きな ”樽” が見える

                ・・・・いつの間にかラーメン屋




”美里” ”御里” ”ンザトゥ” ・・・・


戦前までの ”中頭郡美里村” は
南は沖縄市の県総合運動公園付近より
北はうるま市石川地区へと連なる

現在の沖縄市の美里地区とうるま市石川地区は
倉敷ダム付近などの鬱蒼とした森で繋がっていた


森の北側には ”山北” を睨む
”伊波グシク(美里グシク)” と ”山田グシク(読谷山グシク)” がある


”いわゆる琉球史” で琉球を三山を統一したとされる ”尚巴志” の母は
”美里之子” の娘と言われている

美里之子の来歴は歴史上から消されているようだ(云われがほとんど残っていない)


尚巴志による三山統一では 
”伊波グシク(美里グシク)” の ”伊波按司” を中心とした
”伊波按司の系統” が大きく関わっており
尚巴志の正妻は伊波按司の娘とされている


いわゆる琉球史における ”三山時代” 
この付近には ”三山” のどちらにも属さない人々がいた

その人々の営みは ”琉球史” から消されている 

徒然中部-北地区今帰仁の面影三山時代

南風原漁港 Part2

中城湾を挟んで
知念半島と対峙する勝連半島の付け根付近に南風原漁港がある

この付近は ”勝連グシク” の交易港だったそうだ


冬の冷たい北風は背後の丘で遮られ波は穏やかだった


中城湾中央の右方の丘陵には ”東の海” を望む ”中グシク” が見える


知念半島佐敷には ”月(月代)” を守護神とする ”尚巴志” の系統が

勝連には ”望月(茂知附)按司” がいた










勝連グシクは ”仲昔今帰仁” と繋がりのある ”浦添グシク” にあった ”英祖の系統” が創建したとされ
6代目は ”伊波按司の系統” が引き継いだが ”浜川按司” との戦いに敗れた
浜川按司は二代続きその後 “望月” に代わっている


”肝高(ちむたか)の阿摩和利” の ”阿麻和利” の母は
伝承によると1416年の尚巴志・伊波按司などの連合軍により敗れた北山王国(山北:後今帰仁)の姫であったという

”敗れた山北の姫” は護佐丸により北谷屋良(現:嘉手納町屋良)にあった伊波按司系統の ”屋良大川按司” のもとに匿われて阿麻和利(幼名:カナー)が生まれた

幼い阿麻和利は母と共に ”林堂家:リンドー;伝道” に預けられ
成長後は現在の南風原漁港近くで漁師となっていたらしい・・・・望月攻略のためのスパイ?


望月按司を滅ぼした後は海外との交易などにより勝連を繁栄させ多くの民衆に愛されていたと ”おもろさうし” に記されている


その後第一尚氏尚泰久王の娘で絶世の美女といわれた ”百登踏揚:ももと;護佐丸の外孫” を正室とするが
”第二尚氏の歴史” でのいわゆる ”護佐丸・阿麻和利の乱” で命を落とした

阿麻和利を討ったのは伊波按司の系統の ”鬼大城” とされる


・・・・なぜか護佐丸お膝元の読谷古堅に阿麻和利の墓はある(北谷屋良に近いから?)

いずれにしても第二尚氏成立前後の出来事は ”伊波按司の系統” が多く絡んでいる



”月は太陽に照らされる”

中城湾の中央付近で太陽が昇る ”東の海” を望み
両脇に ”月代”  と  ”望月” を擁する ”中グシク”  がある
 



追記)
かつてあった ”北谷三箇” に ”伝道” があります

2021年東京オリンピック女子空手型で清水選手は決勝の演武に 
”チャタンヤラクーサンクー” で挑んで見事銀メダルを獲得しています

徒然雑感

簡易集塵機をDIY

HIKOKIのエアダスターを購入して以来
BOSCHのブロアーを使わなくなった

BOSCHの風圧は強いがジェットエンジンのような金切音もすごい・・・・



ブロアーが部屋で寂しそうに鎮座しているので簡易集塵機として再生・DIYすることとした

マキタの掃除機用サイクロンユニットとパナの ”まごの手フットスイッチ” をAMAZONで取り寄せてブロアーのスタンドは端材で作成した










大きなバスケットにブロアーを入れて
牧港の ”丸宮” で購入した洗濯ホースに繋ぎ
100均のティッシュカバーでサイクロンを吊り下げた









・・・・ブロアーからサイクロンまでのホースが長すぎた
ブロアーのON/OFFはフットスイッチで遠隔操作・・・・できるはず

丸のこやトリマーの集塵孔に繋いで集塵予定・・・・

以前自作したトリマーテーブルでの集塵はスマホスタンドでホースを誘導し行う









使用後はバスケットごと撤収~~~ぅ!!


ちょっともう少し改良?してみます・・・・

徒然那覇首里地区今帰仁の面影グスク時代

上間の高台から

那覇市上間と識名には
中北山(仲昔今帰仁)と後北山(いわゆる北山王国)の帕尼芝(はにじ:羽地)との抗争で敗れ逃れてきた移住者の子孫が住んでいると云われている

1322年ごろの出来事だろうか









上間の高台から南の方を眺めた

ここから沖縄島の南部地区一帯が見渡せる



その昔(いわゆる琉球史でのグシク時代)に
沖縄島に広がっていた ”うちなぁ:今帰仁世” は破れ
その歴史は勝者によって消し去られていった


古層の奥深くに沈んだ歴史は見つけることができるのだろうか




・・・・沖縄島の各地に散らばる 
”今帰仁世” の複雑に分かれた痕跡をつなぎ合わせてみたい

徒然雑感

沖縄も朝晩だいぶ寒い

ある朝起きると猫の鳴き声がする

縁の下を覗き込むと・・・・




お腹を空かせているのだろうか

ネコ餌と水を玄関脇に置いておいた

しばらくすると餌は無くなっておりネコも家の周りに見当たらなかった



翌々日夕方にまた猫の鳴き声がする・・・・

餌と水を用意しておいておくと食べた後にはいなくなっていた



沖縄県は以前ノラ猫に餌や水を与えないように各市町村に通達を出していた
(どうも地域ネコにも当てはめているらしい・・・・)

その後何回か家に来てだいぶ慣れて撫でることができるようになった

下顎の歯がほとんどない・・・・(は~も~・・・・)










キャリコ・・・・名は ”みっけ” になりそう・・・・

徒然中部-南地区今帰仁の面影夢の跡(現代まで)

中城龍宮神

中城村北浜の堤防沿いに
”東の海” に向かって ”中城龍宮神” が祀られている

龍宮神は大きな ”シャコ貝” と相対する



沖縄島の龍宮神は魚港など各地に点在して存在している










龍宮神は ”海の神:うんじゃみ” を祀ったとされているが
その云われはよく理解できていない

”海の神” は遠い彼方(にらいかない:ぎらいかない)からこの地にやってきた・・・・?


天孫氏・アマミキヨ・・・・

遠い彼方の地はどこにあったのだろうか



いわゆる琉球史における ”グシク時代” の黎明期(13世紀初め前後)に沖縄の社会構造は大きく変化しているようだ

その時代に何らかの人々が海を渡ってこの地にやってきたのだろうか



遠い彼方は何処へ・・・・

今帰仁の面影グスク時代

平安京 Part2

平安京:たいらのみやこ たひらのみやこ


794年桓武天皇は ”たいらのみやこ” に遷都を行った


889年桓武天皇の孫(天孫)高望王は ”平朝臣” を賜与され 
”平高望” を名乗り ”武家” の ”桓武平氏” の祖となった
(高望の兄 ”高棟” は ”公家平氏” となり ”たいらのみやこ” で家系は江戸末期まで続いていた)

898年高望は上総介に任官され長男国香・次男良兼・三男良将を伴って関東(坂東)へ下向する

高望親子は任期が過ぎても ”たいらのみやこ” へは帰らず
在地の豪族を取り込んで次第に勢力を拡大させ
武士団を形成し ”坂東平氏” の基盤を固めた

関東に広がった平氏一族は互いに抗争を繰り返し
良将の子将門は  "京:みやこ” の朱雀天皇に対抗して ”新皇” を自称し朝敵となる   (承平天慶の乱)

将門の乱は従兄弟で国香の子貞盛らにより討伐された


貞盛の四男維衡(これひら)は
伊勢にあった坂東平氏の流れを組む同族の
平致頼(むねより:維平の又従兄弟)の一派を排除し ”平家” へと連なる ”伊勢平氏” の祖となっている

維平の曽々孫で平清盛の父忠盛(ただもり:父は正盛)は
飛躍的に勢力を拡大させ伊勢平氏で初めて昇殿を許されて
日宋貿易で莫大な富を蓄え平氏興隆の基礎を築いた


1153年忠盛の後を受けた平清盛の代で
平氏一門(平家)は隆盛を極め全国に五百あまりの荘園を保有し
日宋貿易でさらに莫大な財貨を手にした

1167年平家絶頂を迎え清盛は家督を重盛(しげもり)に譲り 
”福原” の開拓に専念することとなる



”祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の断りをあらはす
  
  驕れる者も久しからず ただ春の夢のごとし
  
   猛き者もつひにはほろびぬ ひとへに風の前の塵に同じ”





         


          (すみだ北斎美術館蔵 浮絵一ノ谷合戦坂落之図)


清盛らの勢力(平家)の伸長に対し後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになる
 
1179年重盛は42歳で病死し
後白河法皇は重盛の地行国越前を没収するが
これに怒った清盛は法皇を幽閉し
院政を停止して孫を天皇に即位させた(安徳天皇)





平氏政権(平家)の独裁に後白河法皇の第三皇子 ”以仁王” の挙兵や寺社勢力の動きが持ち上がった

清盛は平家にとって有力寺社に囲まれ地勢的に不利益な京都を放棄し
平家拠点の国際貿易港に近い ”大和田泊” を望む ”福原” への遷都を強行する


以仁王の呼びかけで ”源頼朝” ”甲斐源氏” ”木曽義仲” らが挙兵した

これに対し清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため ”平維盛” を総大将とする大軍を坂東へ派遣するも ”富士川の戦い” で戦わずして撤退してしまう

1180年清盛は死去し平家の棟梁は三男の ”平宗盛” が継ぐが全国各地での相次ぐ反乱に対処できず
平家は次第に追い込まれていった

1183年維盛を総大将とした平家方は総力を結集した10万の大軍を北陸へ派遣するが
木曽義仲(頼朝の従兄弟)の軍勢に ”倶利伽羅峠の戦い” ”篠原の戦い” で敗北し義仲の入京を許した

平家は神鏡剣璽を持ち去って福原より九州(太宰府:平家の日宋貿易の拠点)へと逃避行(西走)することとなるが
後白河法皇の命を受けた緒方氏らにより九州を追われ四国へと渡った

平家軍は何とか義仲の四国渡海を阻み ”屋島” などを押さえて瀬戸内海の制海権を回復させた

1184年正月に頼朝・法皇方との争いで義仲は敗死し
その間に平家は福原に前線基地を設け 
”たいらのみやこ”  をうかがうまでになるが
義仲の死亡により頼朝と対峙することとなった


1184年2月の ”一ノ谷の戦い” で 
”源義経” の ”逆落とし” で不意を突かれ壊滅的打撃を負い
1185年の ”屋島の戦い” にも敗れ
続く ”壇ノ浦の戦い” で平家は滅亡したとされている
   (1180~1185年 治承・寿永の乱:源平合戦)




平安時代末期の古代日本最大の紛争 ”源平の争乱(合戦)” は ”平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流(平家)” に対する反乱であり
反平家勢力には “祖” を同じくする坂東平氏も大多数が含まれており遠戚間の対立との側面もある

日宋貿易で得られた富を平家を中心とした中央で独占し
その財と権力で栄華を極め傍若無人に振る舞った ”平家” に
他勢力が嫉妬と不満を募らせ反乱を招いた

”源平の争乱” は単純に ”源氏と平氏のとの争い” と捉えられがちだが
前述のように頼朝の率いる鎌倉方には 
”坂東八平氏” と呼ばれる坂東武者が大多数参画していた(三浦氏・千葉氏・畠山氏・梶原氏・鎌倉氏・和田氏など)

坂東八平氏の祖は886年に ”たいらのみやこ” で平高望の側室の子として誕生した ”平良文” である

良文は高望らが坂東に下向してのちしばらくして坂東に赴いたとされており
平将門の敗死をいち早く都へ伝え平貞盛らの側に加わっていたことがわかっている


また鎌倉幕府の執権となり幕府を支配した ”北条氏” は伊勢平氏の傍流であることを自称していた

”日本三大悪女” の一人として挙げられる源頼朝の妻 ”北条政子” は江戸時代の文献で ”平政子” と記されている


歴史を振り返ると源平は対立しているばかりでなく時に協調しあう関係でもあり
また源氏一族や平氏一族内でも同族内での争いが絶えない


織田信長は ”平資盛(すけもり):平清盛の嫡男重盛の次男で維盛の弟” の子孫を名乗り
”羽柴秀吉” もまた平家の後裔であると自称していた

戦国の世は源氏を名乗る ”徳川家康” が平定し
同じく源氏を名乗る ”薩摩島津氏” により支配された琉球国第二尚氏も ”源氏” を名乗っている




”一ノ谷の戦い” の前後 ”平維盛” は舟を三十艘ばかり率いて ”南海” へ向かったと云われ(玉葉:平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された九条兼実の日記より)
また熊野より ”補陀落渡海” を行ったともされている



沖縄の古謡 ”おもろさうし” 第14巻に今帰仁運天港のオモロが収録されている


 ”せりかくののろの あけしののろの
 
  あまくれおろちへ よろいぬらちえ
   
   うんてんつけて こみなとつけて

    かつうたけさがる
 
     やまくれおろちへ よろいぬらちえ

      やまとのいくさ やしろのいくさ”

”雨降る中に大和の兵団が運天港に上陸した” とされるオモロである


その後いわゆる琉球史では ”貝塚時代” が終わり ”グシク時代” が始まった

1186年?・・・・

日本史上では ”古代” とされる平安期が終結し ”中世” とされる鎌倉時代が始まった時期・・・・

その頃に ”うちなぁ” でも大きな歴史的変革が興っている


源氏を名乗る薩摩島津氏に支配された第二尚氏は
分家に名乗り頭 ”朝” を用いていることが多い

一方で中今帰仁(仲昔今帰仁)の子孫は
名乗り頭 ”盛” が多用されている



薩摩に支配された ”琉球” において 
”南走平家” の流れを汲む人々の残像は隠され消されていった


・・・・そして 第二尚氏時代に ”為朝伝説” が創作された



沖縄各地に ”たいら” の地名が散らばっている;豊見城 首里 具志川 東村 (読谷や西原町・糸満・本部・八重山などにもかつてあったようだ)
宮古には ”ぴさら” 名護市には ”田井等”  がある


”たいら” は ”てぃーら” すなわち ”太陽”
”照屋” も ”てぃーら” と云われている


沖縄の方言: ”うちなぁぐち”  には
平安期に ”たいらのみやこ” で使われていた言葉が数多く眠っているという




・・・・インドにあった ”祇園精舎” には ”鐘” はなかったらしい
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