軽便橋

みやきせん

2024年08月30日 08:40

北谷町北前の普天間川河口近くに”軽便橋” がある


この付近には ”ケービン” と呼ばれた沖縄県営鉄道嘉手納線の
”佐阿天原橋梁” があって復帰後に新しい橋が架けられ人道橋となった

1988年の銘板には ”軽便橋” と刻まれてかつての路線跡であったことがわかる








橋の北側は ”ハンビー飛行場” となって
現在は ”ミハマ”  と呼ばれる地区となりケービンの路線跡は消えた


北前地区は大正時代の地図で ”北谷前:ちゃたんぬめー” と表記されている

戦後は ”特飲街” となって雑多な街が形成され
区画整理されたミハマ地区とは対照的な雰囲気となっている




戦前まで北谷地区には豊かな田園地帯が広がっていた

ほとんどの ”タァブックワァ:田袋” は米軍基地へと接収されている


1200年代(13世紀)前半には
北谷のタァブックワァから ”北谷菜切” が見つかったとされる

北谷菜切は仲昔今帰仁(中今帰仁:中北山)へ
築城途中の ”今帰仁グシク” 建造のための石切として献上されたと云われている


”国宝・北谷菜切” は那覇市歴史博物館に収蔵されており
北山王国(後今帰仁:後北山)最後の王 ”攀安知:はんあんち:はにじあじ(羽地按司)” が所持していたとされる ”千代金丸” などと共に9月から10月にかけて今年も一般公開される





一中(現:首里高校)に通っていた父は
時々大謝名からゆっくり走るケービンの後ろに捕まって
安里まで “ヌギバイ” してたらしい

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